直接このページに来た人は入口から入ってください....

確定!続・大阪物語(第11部)

〜 さんきゅう、まざぁ(後編) 〜



5月9日朝。
母の容態が急変し大変危険な状態、数日の命だという連絡が入った。
電話を切ったオレは冷静にこの事実を受け止めた、かと自分では思っていたのだ。
しかし実際はまだ母の死を現実の物として意識できていなかったのだと思う。
とにかく病院に駆けつけ、母の病室に入ったオレに見えたもの。
それはぐったりと横たわり、酸素吸入器をつけられた母が目を閉じて定期的に呼吸のみをしている姿だった。
息を吸ったとき眉間に少ししわが寄る動作さえ全く同じに呼吸を繰り返していた。
意識はあるらしい。
話は聞こえるから話しかけてやってくれと言われた。
周りが気を使ってオレと母を二人だけにしてくれた。
それは最後の二人だけの会話になるかもしれないという意味を含めていたのだが、オレはいまいちその状況を飲み込めないままでいたのだ。

どうする。
何をしゃべっていいのか分からない。
そのときのオレの頭に入っているいくつかの断片的な知識。
母の苦しみを和らげるためにはもう薬で眠らせるしかないこと。
母は今はまだ意識があること。

混乱していたオレは母を眠らせることはできるが、こちらの言葉が届くように意識は起こしてあるのだと思った。
今から思うとすでに薬で眠らせている状態だったのかもしれないが、とにかくその時のオレはそう思った。
とにかく現実のスピードについていけてない、という感じだったのだ。
オレは母の手を握り、やっとの思いで言葉を発し、こちらのわがままで起きてもらっていることを詫びた。
すまんな、と詫びた。

それまでほぼ体を動かすことのなかった母が大きく首を振り何か言おうと口を動かした。
もちろんきちんとした発声はできないが、母の目には涙がにじんでいた。
あやまる必要なんてない、とでも言っていたのだろうか。
オレはそこから何も言えなかった。
これが最後ではないと感じていたし、とにかく頭が現実を理解していなかったのだ。
いや、頭では分かっていたが体が理解していなかったと言った方が近いかもしれない。

病室に誰かが入ってきたことは覚えていない。
母の涙を拭いてからそこまでの記憶がないのだ。
おそらくほとんど会話はしていないような気がする。
いや、何か言ったかもしれない。
それもわからない。

その後は母も落ち着いた様子で定期的に、あくまで定期的に呼吸をしていた。
そばにいる親戚や兄弟と話をし、オレも徐々に現実に体が慣れていくと共に、先ほどの二人きりの母との会話をやり直したいと思うようになった。
ずっと大きな存在だった母を送り出すのに、それはあまりにもお粗末なものだったからだ。
そこでオレは次の日会社を休み、つきっきりで看病することを申し出たのだ。
一晩あれば母に思いを伝える時間を作れるに違いない。

そんなことを考えているとき、兄が看護婦を呼んだ。
呼吸の様子が少しおかしいから唾か何かたまっているのではないかという。
確かにそんな感じがしていた。
なにかこう、喉に物がつまっているような。

しかし、かけつけた看護婦の反応はそんなやさしいものではなかった。

いつの間にかもう一人看護婦が増え、脈を測っている。

脈拍がかなり弱っているというのだ。

オレも母の手を握り、そして手首の血管に指を当てた。

確かに弱い。

そうしている間に母の定期的な呼吸は徐々にその間隔を広げていった。

10秒に一回くらいかと思っているとすぐに15秒に一回程度になった。

機械的だった呼吸の動作がとても大きくなっている。

体が一生懸命に空気を取り込もうとしているような感じだ。

呼吸の感覚はますます広がっていく。

ピクリとも動かないかと思えば、忘れた頃に呼吸の動作をする。

脈拍はもう30程度だと告げられた。

しかし、すでにオレの指では脈は感じ取れない。

母の死を待つしかないことはそこにいる誰もが知っていた。

母が弱り始めてから数分の間の出来事だったと思う。
時間が長く感じられるとか短く感じられるという感覚ではなく、時間という概念から独立した空間だった。
そこでは時は止まっていた。
オレの目には死へ向かう母だけが写っていた。

今、もう死んでいるかもしれない。

そう思うとまた一回、母が呼吸をする。

再び、オレは数十秒の猶予を得る。

そんな思いを何度か繰り返し、次の呼吸を待っていたオレは最後に置いてけぼりをくらった。

医師は母の瞳孔をライトで照らし、死の宣告をした。

16時49分、オレが病室に到着してから3時間程経った時だった。

オレはしばらくそのまま椅子に座って、母の前でただ泣いていた。
悲しくては泣き、自分を恨んでは泣いた。
母との最後の会話、侘びる言葉しか言えなかった自分が悔やまれて仕方ない。
母はどんな気持ちでオレとの会話をしたのだろう。
最後に謝るばかりの息子を叱りたかったに違いない。
最後の最後でさえ、オレは母を悲しませることしかできなかったのではないか。
その後の通夜、葬儀の中、ほとんどの儀式でことあるごとにオレは泣いた。
悲しみと後悔とで泣いたのだ。

最後の会話。
ただ詫びることしかできなかったオレ。
一体なぜ。
どうしてオレには ありがとう という一言が思い浮かばなかったのか。
悔やんでも悔やみ切れない思いで泣き続けた。

オレは死後の世界などというものは信じていない。
今回の母の死でその確信をさらに深めた。
なぜならもし死後の世界があり、まだオレの言葉が母に届く可能性があるのならば、オレはどんなにか救われるだろう、と感じたからだ。
やはり残された人間が救われたいという願いからできたものだと、オレなりに感じた。
当然オレも、もう一度チャンスがあればとは思っている。
それでも現実は受け止めなければいけない。
オレは今回の失敗を一生背負わなくてはいけない。
だからこそ何気ない一時を悔いのないように生きなければ。

もう、自分の言葉が母に届かないことは知っている。
これ自体が自己満足にしか過ぎないことも。
それでもオレにはこれくらいしかできないのも事実だ。
母に、お礼を言わせてもらいたい。


母よ。
生んでくれて、ありがとう。
今まで育ててくれて、本当にありがとう。
本当に、本当にありがとう。


最後(?)の晩餐
TOP
BACK