この話は実はUPする前日にほぼ書き終えていた。 2004年5月9日、母の日である。 16時49分、長い間ガンを患っていた母が他界した。 最期は喉元に転移していたため思うように呼吸もできない状態だった。 苦しまないように薬を投与したので意識もほとんどない状態で死を迎えた。 59歳である。 厳しい上、ヒステリックで風変わりな母。 そのくせ多くの人々の心をつかみ、誰とでも友達になり、誰からも好かれていた母。 あまりにも多くの思いがよぎったのもあり、漫画ですら涙を流すほど涙もろいオレは涙をこらえることもできず、またこらえようともせず病室で泣いた。 看護婦や医師、妻、兄、母の友人や兄弟、母の夫(母は離婚後、再婚している)などたくさんの人前でオレはいつまでも涙を流していた。 母がもう長くないことは知っていたし、その死を受け止める覚悟ができていたつもりだったのだが、やはり経験しないとわからない悲しみというものがあるようだ。 思い出すとオレはいつも母親に苦労した少年時代であった。 もちろん母親もオレには苦労していたようだったのだが。 怒ると見境がなく、すぐに大声を出していた。 それなのに今ひとつ怒るきっかけがわからないから予想もしないときにいきなりその大声が来る。 小さかったオレと兄はいつ大声が飛び出すのかビクビクしながら生活していたものだ。 怒り方も様々であった。 正座してずっと説教を聴かされたり、叩かれたりするような一般的な怒り方もある。 原因は忘れたが兄は学校を1ヶ月休まされたり、オレは先生のありがたみが分かっていないと毎朝職員室におはようございますを言いに行かされた、など変わった仕打ちもある。 教科書やランドセルを全てベランダから捨てられたことが特に多かった。 中には裸で外に放り出されて玄関にヒモでつながれたり、物干し竿に干されたりする今ではニュースになりそうなこともされた。 今でこそオレが飲み会でウケを狙う数々のネタになったが当時はそんな余裕はなかった。 我が家では常に恐怖の対象は母であり、また幼いオレが胸焼けするくらいの愛情を常に注いでくれたのも母であった。 どちらも若かりし頃のオレにとってうれしいものではなかったのだ。 オレはいつしかその生活から脱出することに生きがいを求め、高校1年のときからアルバイトを始めた。 そして大学入学時、大阪と京都なので通えない距離ではなかったがオレは頑なに一人暮らしをすると言い張った。 20歳も近くなると母親もある程度放任主義になっており、資金も作ってあったため反対もできなかったようだ。 学費は親が負担し、仕送りは小遣いとしての月2万円のみという条件でオレは一人暮らしを始めることになった。 父と母、そしてオレとで引越しの作業をした日。 オレは清々しい気持ちで荷物を新しい部屋に運び込んだ。 これで親から解放される、自分の部屋ができるという気持ちしかなかった。 そして全ての作業が終わり、そのまま部屋に残るオレが両親を見送るとき、母親がトイレを貸して欲しいなどと言う。 今から思うと殴りたいくらいに親不孝者だったオレは オレ:「そこに公衆トイレがあるだろ。」 などと言ってしまったが、その言葉は幸運にも母の 母:「冷たいこといいなさんな。」 という言葉に押し切られ、2人で部屋に戻ることになった。 親の、子に対する愛情の深さなど理解できない程若かったオレは、トイレに入っていく母親が涙ぐんでいるのに気付いて初めて後ろめたくなったものだ。 こんな親不孝者でも母はオレを自慢の息子だと思っていてくれたようだ。 しかしオレは家族の苦労や愛情の上になりたっていた自由を、ただの個人の所有物としてむさぼり、およそ自慢の息子らしからぬ生活を送り始めた。 バイトや酒やギャンブルに時間と金を浪費して数年、母からの電話。 それは自分がガンであることをオレに告げるものであった。 気丈で負けん気が強く、全てにおいて自分を犠牲にする癖のある母は何度も心配はない、大丈夫だと言っていたように思う。 記憶が明確でないのは、そこまで言うのだから本当に大丈夫なのかな、と感じた浅はかなオレのせいだ。 手術をするけど見舞いはいらない、大したことじゃないから本当に心配するな。 そんな言葉に簡単に騙されたオレが一番悪いのだが、少しだけ母の事も恨んでしまう。 ガンの摘出手術は一応成功に終わった。 しかし成功しても目に見えないほどの小さなガン細胞が残り、転移する可能性がまだ3、4割あることは後日医者から聞いた話だ。 そして、しばらくしてガンの転移が発覚した。 しかもその発見は少し遅れたらしい。 ガンという病気は転移が発覚すれば非常に危険だという話も聞いていたし、うっすらと死という言葉を頭に浮かべたりもした。 だがそれでもなお大丈夫、心配ないという言葉を繰り返す母。 あまりにも強気な母にどこか安心感を持ってしまう。 会いに行くのには片道で2時間強の時間がかかるため自然と足も遠ざかった。 しかし、たまに会う度に徐々に衰弱する母を見てやはり実感は深まっていくのだ。 ようやく母の背後に死の影を強く、強く意識せざるを得なくなったのは今から2ヶ月程前。 母の妹がそれまで入院を拒み続けていた母を無理やり入院させた時だ。 もうすでに母の体は限界に達していたのだ。 もう長くはないことを知らされたので、それからは今までより見舞いに行く回数を増やした。 それなのにいつ行っても母は元気だった、いや、元気を装っていた。 喉もとのリンパに転移したガンのため思うようにしゃべられなくなっているのに、力を振り絞って他愛もないことをしゃべり続けるのだ。 オレは何度ももうしゃべるな、と制止したが無駄に終わるばかりだ。 そういう状況で徐々に呼吸も困難になり、ついに母がしゃべれなくなる日を知らされた。 喉に管を通し、そこから呼吸しなければいけないらしい。 もちろんそうなるともう声を出すことはできない。 オレはその手術の前日、仕事の帰りに母に会いにいった。 病室に着くと母はベッドの上で寝てはおらず、正座したままうずくまったような格好でじっとしていた。 呼吸困難のため相当に苦しかったのだろう。 しかしオレが来たことに気がつくと母はすぐに起き上がってオレにいうのだ。 母:「お母さんね、しばらくしゃべれなくなるから。」 母:「最後にそれが言えてよかった〜。」 最後という言葉を使っている時点で恐らくもう2度としゃべれないと思っていたのだろう。 それでもしばらくしゃべれなくなるというような言い方をするところが正に母の性格を表している。 少しの間だけ母をマッサージしてオレは帰った。 会話をするだけでひどく体力を消耗しているようだったのだ。 それから何回か見舞いにいった。 呼吸も少しは楽になったのか母は再び元気になったように見えた。 いや、これもそう振舞っていた部分もあるだろう。 そして全ての会話は筆談になったものの、それでも母の強気は変わらなかった。 だが5月8日、見舞いにいったオレはそれまでとは明らかに変わっていた母を目にすることになる。 元気かとたずねるオレに母は手を振ってノーのサインを出したのだ。 顔や足はむくみ、ぐったりとしている。 何度か会話は交わしたが筆談の字は乱れ、本当にしんどそうだ。 身の回りの世話は母の妹がしてくれていたのでオレにできることは何もなかった。 今までの母からすると考えられない状態であったのに、よくなることを祈りつつ帰ることしかできなかった自分が悔しい。 後編へ続く... |